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群馬大学の解剖献体事情

 

群馬大学医学部

 

群馬大学医学部は昭和18年の前橋医学専門学校開設に始まる。初代校長は色盲表で有名な石原忍元東京大学教授、逓信病院長、解剖学教室の開設には、故、新島迪夫教授(解剖学会22代理事長、東京医科歯科大名誉教授)、滝沢安子吉助教授(群馬大学名誉教授)が当たられたが戦時下にあり、新島教授まで昭和19年に応召された。戦後の昭和21年に石原校長に代わり2代目校長として西成甫先生が赴任され、医学専門学校から医科大学へ(昭和23年)、さらに学長として、群馬大学(昭和25年)の実現に努められ、昭和34年までの15年間各学部の拡充に尽力された。解剖学教室は新島教授後任に伊東俊夫教授(昭和23年)が着任、西先生も肉眼解剖学を講義され、滝沢助教授(当時)とともに第二講座の開講(昭和27年)に尽くされた。校長、学長を務められる中で学生との交流もよくされ、エスペランチストとして知られる西先生の人格は学生に多くの影響を与え、またその後の篤志献体に大きな影響を与えた。滝沢教授と共に実習室の整備、標本作成に努められたことは、現存する貴重な標本から伺い知ることができる。現在、医学ミュージアム構想のもとで平成7年標本委員会が発足し、主要資料となっている。
当時の献体者の多くは身寄りのない方々であったが、昭和30年以前に既に4名の個人篤志献体者が居られることは特記すべきことである。西成甫先生ご自身も昭和53年に永眠され、ご遺志により献体された。掲げられた地方大学創設の理想追求と献体啓蒙に大きな力となっていることは言うまでもない。昭和48年までの30年間に群馬大学への篤志登録者は177名に達している。それは一貫して篤志献体の必要性を訴え続けた結果でもある。昭和40年前後は特に新進気鋭の間藤方雄助教授(現自治医科大学名誉教授)を中心に県内外の老人ホームなど17施設、41病院,市町村福祉課などくまなく訪問した。訪問先は約80ヶ所にのぼる。老人ホームの診療慰問も行なった。
この時群馬大学の献体登録窓口を“不朽会”とし、医学部庶務係りが担当し、第2講座が協同して当たっている。現在は教務課研究協力係が窓口担当である。“不朽会”は団体として組織化するに至っていない。この時の篤志登録者が核となって現在は1,000名を越えている。またその際作成したパンフレット“遺体提供のための手びき”、“遺体提供にご理解いただくために”やチラシ“遺体提供のために”は現在の篤志解剖全国連合会発行のパンフレットと同様の内容であるので、今はこれによってPRを続けている。昭和58年滝沢教授の退官にともない解剖学第二講座は石川春律教授に引き継がれた。現在も献体は順調で学生二人に一体の実習を維持し続けており、さらに、高学年の学生や臨床医の自主解剖(夏期実習)にも役立っている。慰霊祭は昭和19年より由緒ある市中の寺院で行なってきたが平成2年より教育学部音楽専攻学生による鎮魂歌で始まる脱宗教様式で市内の公共の会館で執り行なわれている。昭和27年建設の大学納骨堂は平成2年に新築移転した。納骨堂安置希望者が予想を越えて多くなったことが一つの理由である。毎年慰霊祭の後に医学部長、解剖学教官、関係事務官、学生が参列し、納骨式を執り行なっている。
(藤巻 昇 解剖学第2講座)

 

 

 

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